彼女と黒猫と硝煙と――その2

彼女と黒猫と硝煙との続きです。気が向いたら、お暇でしたらこちらを先にどうぞ




 「硝煙臭い」
 「もんくはだめ」

 あの一生涯の記憶に残るであろう辱めを受けてから一時間後の現在。私はあのまま脇に抱えられて『彼女』の部屋に来ていた。
 扉を開いた瞬間に鼻へと貫いてくる火薬の臭い。それに混じってシンナーやサビ臭さ、オイルの独特の匂いが混じり合っていて何とも言えない刺激臭を醸しだしていた。まさしく軍人御用達の部屋で、一世紀前なら男臭いと表現されていてもおかしくはないなんて思える簡素な部屋。
 ……残念なことに数十年前の世界大戦中に男女平等理論が確立してしまい、男も女も戦争の一道具としてしか扱われなかった。少しでも使える運動神経ならばどんどん戦場へと借り出されていき、老若男女問わず銃を構え、殺し合いをしていた。それでも戦場に平民の比率が高かったのは、貴族を守るための矮小な理由に過ぎない。特に階級が下になればなるほど、女は生み、子供は自我が目覚める5、6歳で戦場へと向かう、その繰り返し。くだらない理由で始まった貴族たちの滑稽なお遊び、チェス盤から駒を落としていくように命を切り捨てていく。そんな戦争が終わったのはちょうど十年前、私が生まれた年の夏だった。
 戦争のきっかけは誰も覚えていない。ただ領地を増やせればいい、なんて、お役人が考えた結果の出来事だと伝えられたのだし、結末も当たり前にお粗末なものだった。力こそが正義、負ける者が悪、一世紀以上前から保存されている書物にはおおよそ考えつかない事象。人間というある種の紛いものが生み出した、殺戮と凶器の期間。もちろん、世界大戦が始まる前にもいくつか大規模な戦争は起こっていた……私はあまり聞いたことがないから実際にあったかどうかはわからないけれど……けれどそれは世界大戦に比べれば子供のようなもので、特定の大国が植民地を求めて戦争を行う、程度の認識しかされなくなっていった。しかし、今と昔で決定的に違うことは戦争の目的。昔は植民地、つまり人員や資源を求めての侵攻であり他国を攻めるのにそれ相応の理由があった。だが今回の戦争は娯楽、目的もなければ意味もない、誰かが攻めたから攻め返す、自分の国、チームが勝てばいい。多額のお金を軍という名目上の最高権利者に渡して一般市民を戦争へと狩り出していく……。まさしく貴族たちによる命を使った殺戮ゲームと呼ぶのに相応しい、そんな気さえする戦争だったのだ。
 世界大戦以前に起こっていた戦争も、概要は同じようなもの。けれど、決定的に違うのは戦争にむかう大半が成人男性であり、独身が多かったこと。それゆえ、今目の前にしている『彼女』の部屋は、資料館にでもありそうな一世紀以上前の男性の部屋に似ている、のかもしれない。

 「てきとうにくつろいでいてね」

 そういった『彼女』は、水の入ったヤカンをコンロの上にのせて火を付けていた。手慣れた動作でキッチン周りを片付けながら鼻歌を口ずさんでいる。

 「…………ふぅ」

 私は少々古くなっているソファーに腰をかけて、リビングから見える『彼女』の背中を見ながらちょっとだけ考えてみる。
 ここからは私の推測だけど、『彼女』も世界大戦を経験した一被害者だと思う。それも軍隊に所属していて、なにかのきっかけで右腕を負傷、そのままでは使い物にならないので軍の命令で義手を装着、そして終結、現在に至る……とか。
 ……そしたら『彼女』は今何歳なのだろう? いくら男女平等理論が成立したとはいえ女性が戦場に行くのは最低でも二桁、十歳以上だった気がする。右腕を戦場に行ってすぐ失ったと仮定しても二十歳、けれど、当初で義手にしてしまったら成長の過程で必ず何回か交換の必要性がでてくる……でも戦争が終結している今、人形師みたいな人がいる訳でもない。ということは、少なくとも『彼女』は成人、またはそれに近い成長段階で右腕を失ったことになる訳で、それはつまり戦争の終結間近、それから十年経っているということは……三十歳前半……? それって、オバ――
 すると次の瞬間、

 ――バチンッ――

 「ぉぅふ!」

 ヒュッという風切り音と共に私のおでこに目に見えないなにかがクリーンヒットを放った。

 「ぃッっったーーー!」
 「わたしはくつろいでいてっていった。だめだよ、かんがえごとしてたら」

 お盆を右手に持ちながら左手の中指と親指で○を作りながら、ぴしぴしと弾いている。つまり、いわゆるその、デコピンというものを私のおでこは喰らった訳ですね。……痛いよぉ。

 「くつろいでいてっていった、わたしは」

 片手にお盆、その上にコーヒーカップを二つ乗せて『彼女』は頬を膨らませながら私を睨んでいた。睨むというよりはいじけているような表情といったほうが近い表現かも。

 「…………う」
 「…………」
 「ごめんなさい」
 「よろしい」

 その言葉を聞いた『彼女』は満足そうにうなずいて、私の隣に腰をかけてくる。そして、目の前のテーブルに右手に持っていたお盆をのせると、上に乗っていた二つの内一つのコーヒーカップを私の方へと差し出す。

 「ん」
 「……あ、ありがと」

 差し出されたコーヒーカップを受け取り、ほんのりと湯気の立ち上っているカップに口をつける。私の年齢を知っている上での気遣いなのか、コーヒーにはミルクと多分普段より大目の砂糖を使っている、そんな気がした。一口含み私は初めての「大人の飲み物」であるコーヒーを舌でゆっくりと味わう。高級な豆を使ってるとか、インスタントとかまではわからないけれど、鼻から香る渋みのある香りと舌に絡んでくる濃厚なミルクと砂糖、それにシロップ。……ん? それはおかしい。なんでコーヒーの味がしないのだろう、という疑問が浮かんでくるのは今までにコーヒーを飲んだことがない私でもわかるぐらいにおかしかったから。コーヒーの色合いにも相似るような苦味、ではなくて、しつこくまとわりつく甘さを超えた糖分。

 「ぶっーーーー!」
 「うひゃあぁ」

 勢いよく私の口から飛び出したコーヒーは、霧状となって『彼女』の部屋に霧散していく。その一粒一粒が蛍光灯に反射して綺麗な虹……まではできなかったけれど、吹いた量の半分以上は正面にいた『彼女』の顔面へと付着していった。

 「こーひーくさいよ」
 「こんなまずいもの飲めるわけないでしょ!」
 「ふぇ」

 甘い、なんというか甘すぎる。激甘でまずい。こんなもん飲めるか!

 「そうかなぁ? おいしいとおもうけど」

 顔に付着したコーヒーの粒を気にもしないで、『彼女』は自分のコーヒーを飲んでいる。それはそれは幸せそうに……。っていうか、ありえないでしょ……こんなの砂糖を溶かしたお湯に近いじゃん。
 「おいしかったー」と喜ぶ『彼女』を横目に、こんなのを飲んでいるからちょっとおかしいのかな、なんてことを考えてしまった私がいる。

 「よごれちゃったし、ついでにおふろもはいろうか」

 コーヒーを全て飲みきった『彼女』はソファーから立ち上がり、服を脱ぎ始める。

 「…………っ」

 そのままの足取りで寝室と思える部屋に入っていき、タオルと着替え(私の分も)を持って戻ってきた。

 「きみも、どう?」

 目の前に伸びる右腕に一瞬だけ躊躇した私だったけど、ここは『彼女』の好意に甘えることにしよう。聞きたいこともたくさんあるから……。


 ――その身体に刻まれた生々しい傷跡の理由を……




続く――

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『彼女』と『硝煙』と『黒猫』と

――ダカンッ――


 と、ハンドガンにしてはおおよそ似つかわしくない音が道端に広がり、その直後、橙色の鮮やかな閃光とともに爆音が暗闇に轟く。空中に舞った塊が爆発したベンツだと気づかなかったのは、すでに原型を留めていなかったせいかもしれない。そして、私を殺すつもりだった父親が乗っているはずの車をぽっかりと口を開きながら見ていた私の姿は、端からみればあまりにも滑稽で間抜けだったのは恥ずかしい話。
 そして、目の前の暗闇から現れた彼女の右腕に掲げられたハンドガンを見て、私は「あぁ、女の人が持っているのはあまり似合ってないなぁ」と考えていた。
 その女性(ひと)が掲げていた戦時中でも幻、おろか性能の悪さゆえに誰も使わなかったと云われる。

 大型口径の対戦車用拳銃<ヴァルターカンプピストル>、単発式中折れタイプの拳銃。

 旧ドイツで考案され、実際に使用されたハンドガン……いや、ミサイルを発射できる簡易砲台といったほうがいいかもしれない。元々は信号弾を打つための拳銃で、破壊力はゼロに近いはずのものだった……。しかし、その大口径に目を付けたどっかのおバカさんがグレネード弾を使用したことにより、簡易的な対戦車拳銃として一時期では使われていた……らしい。父親が持っていた書物にも実物も見たことがなかったからそのあたりはあやふや。けれど、その威力と反動は普通の一般人には耐えられないと聞いたことはあった。それなのにその女性は衝撃をものともせず、ただ優雅に、漆黒の闇にその姿を隠すような衣装で立っていた。
 そして、女性はゆっくりとした動作で私の方へと振り返る。見た感じは多分20歳前半、私はしゃがんでいるし、女性から少しだけ離れたところにいるため分かりにくいけれど、身長は160㌢前後ぐらいだと思う。
 すると彼女は口元に人差し指を当て、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「死にたい?」

 彼女はそう言った気がした。気がしたというのは、自分の正面に彼女は数メートル先に立っていたけれど、その声は爆音のせいで一時的に機能が停止した私の耳には届かなかったから。ましてや、私は読唇術を会得している訳ではないので、彼女がなんて喋っていたのかなど分かるはずもなかった。

 「――――か?」
 「えっ・・・?」

 けれど、

 「――くを、み――うか?」

 裂けそうなほど開かせた口元を歪ませ、彼女のその瞳はしっかりと自分という存在を私という存在の正面捉えて、告げる。

 「地獄を、見せてあげようか?」

 その瞬間、世界の理全てが虚偽に思えた。
 『彼女』のどす黒い瞳には薄暗く私が映っていて、この世全ての醜悪を詰めたような深く冷めた瞳だった。睨んだだけで人を殺し、駆逐するような瞳に吸い込まれていく感覚。『彼女』との距離は遠いはずなのに、もの凄く近くに感じる違和感。目を離したいのに離させてくれず、脆弱な私の心は簡単に握りつぶされる。
 そして、彼女の後方数百メートルの壁が壊されて一台のトラックが大通りから細い路地へと出現する。車幅が道幅と合っておらず、ところどころ壁に車体を擦りながら火花を散らし、数㌧の塊が迫ってくる。
 だが、迫りくる巨大な銀塊でさえ、『彼女』の前では恐ろしいほど小さく見えた。それほど『彼女』から出ているオーラみたいなものが凶悪すぎるのだと、少なくとも私は思ってしまった。
 白い犬歯が光りニヤリと不敵に笑う彼女の口元。
 風圧に一本一本なびく黒い髪の毛。
 空には錯覚に見えるほどの紅い月。

 「…ぁ、うぁ……」

 言葉にならない声が口から漏れ出していく。数分だったのか、数秒、もしかしたら一秒にも満たない時間だったのかもしれないけれど、私の全身から色んなものが流れ出ていってしまった気がした。
 そして、『彼女』はその日本人が誇れる美しく輝く黒髪を風でなびかせながら立ち上がり、左腕で次弾を装填しながら照準を正面に突っ込んでくるトラックへと向ける。その姿は死の宣告をしにきた死神のようで、まがまがしいほどの威圧感と圧倒的な支配力を感じさせる雰囲気、右腕に掲げられたそれはまさしく死を運ぶ者として相応しい格好だった。
 半身にして腕は地面と平行に、銃口はトラックと垂直に。止まることをやめない鉄塊に向かって、撃鉄を起こし、引き金に指をのばし、人差し指をゆっくりと、弾いた。
 瞬間、激しい火花と共に放たれた弾丸は迷うことなく眼前の塊に突き刺さり、車体を貫いて強制的に静かにさせる。
 そんな状況下でも『彼女』を観察していたのは、一種の興味本位だったのか『彼女』の存在そのものに興味を持ったのか……そして、私は気づく。『彼女』の右腕の正体に……。
 銃弾を放った瞬間に『彼女』の腕が裂け、肩から無機質の異物が反動を受け流すようにつきだしてくる。古い日本史に出てくるゼンマイ仕掛けの人形、もっと分かりやすいように例えるならばロボットに近い存在。かみくだいて言えば、さつりくを行うためだけに特化された機械式の右腕。『彼女』の腕はまさしく"砲台"であり、機械であるからこそあの弾丸の反動に腕を一㍉も動かさずに耐えることが出来る。相手が動かない、動いていてもそれなりに大きい物体であれば百発百中の大砲。
 そして、銃身から空薬莢を取り出し、流れるような動作で次弾を装填させる。再び半身に構え二発目の弾丸をトラックへと撃ち込み、正面大きく開いた穴に向けて左腕に構えている、あれは確か……そうだ、旧日本軍が使っていた二十六年式拳銃だったはず、その拳銃で的確にエンジンを打ち抜く。数秒遅れで大型トラックが爆音とともに炎を闇へと映す。すでに勝敗が決しているはずなのに『彼女』は打ち抜くのを止めない。スモークガラス越しに運転席、助手席に乗っているだろう人間をめがけて再びハンマーを鳴らす。的確に、確実に人の命を奪っていく『彼女』の弾丸。スモークガラス越しでもはっきりとわかるおびただしいほどの血。
 早すぎる展開とあっけない終焉。と思いきや、『彼女』は上空へとそびえ立つビルを見上げ、拳銃を構え、三度引き金を引く。
 路地に数秒のせいじゃくが訪れたあと、上から落ちてきたと思う数丁のライフル銃が地面に叩きつけられて壊れてしまった。砕け散ったライフルの小さな破片が私のほほをかすめて、そこから真っ赤な血がしたたり落ちる。でも、なぜか痛みは感じない。なんで、だろう…………あぁ、そうなんだ。これが、『恐怖』なんだ。今まで感じたことがない、まるで別次元のような生き物に、私はきっと恐怖しているんだ。
 黒煙をあげるトラックを背にする『彼女』はまるで、地獄のふちにでも立っているようだった。

 ひとが、かんたんにしんでいく。それは、まるで十年も前に終結したはずの世界大戦の一部を見ている気分で、映画とは違うノンフィクションのすぐそこにあるリアル……。
 ここは、本当に地獄かもしれない…………。

 「あら? もう追っ手が来ちゃったか。残弾も少ないし、ここは一度撤退するか」

 右手に持っているハンドガンをホルスターに仕舞い、『彼女』は左手で頭をかきながらそう言った。そして、

 「君は、どうする?」
 「えっ?」
 「生きてみたいと思う?」
 「……うん」

 突然の問いにそう答えたのはきっと、私自身の防衛本能。この場にうずくまっていても必ずしも助かるとは限らないし、必ずしも死ぬとは限らない。けれど、『彼女』という存在の前で死を選ぶという選択肢は、少なくとも今の私にはできなかった。『彼女』から差し出されているこの右手は地獄への招待かもしれない。この状況を見て、この場所が天国だとも言えないけれど、私は『彼女』に染みついた『硝煙』の匂いに惹かれ、『彼女』の右手に自分の左手を乗せる。
 願わくば、地獄への道標を示さんがように……と、思った瞬間だった。

 「ぅわっ!?」

 左腕が急に伸びてきて、私は『彼女』に胸ぐらを掴まれたと思った次の瞬間には、自分の足はすでに地面を離れたあとだった。
 無重力感と身体の内側から頭の方へとこみ上げてくる例えようのない気持ち悪さに加え、神経が今の状況を把握できない歯がゆさ。でも確実に私の身体は空へと舞っていた。しかしそれもすぐに、地球の重力の法則に従い下へと落ちていく。

 「うわぁああッ――――」

 道ばたから数百㍍下の森へと向かい、私を文字通り小脇に抱えた『彼女』が落ちる。しかし、機械仕掛けの右腕を崖に引っかけながら落ちていっているため、スピードもそこまでない。普通の人間ならば不可能なことも、『彼女』にとってそれとは違う。

 「さて……一度部屋に戻るか」

 慣れた足取りで『彼女』は森を駆ける。『彼女』の言う追っ手は恐らくついてはこれない、と、おも……う。そもそも、道ばたか、ら、数百㍍下に、飛び降り…………る、なんて、誰が考え…………もう、駄目……これは車なんて比じゃないぐらいの酔いだわ……。並のアトラクションでもこんなに揺れない、って……。

 「ちょ……ごめん、気分が…………」

 なんていう言葉なんて聞こえるはずもなく、私は事が起こる直前にご飯なんて食べなければ良かったと、心の底から後悔する羽目になった。




こちらに続きます

| | コメント (0) | トラックバック (0)

翼の境界線

 「私、空を飛んでみたいの」
 アスファルトを照りつける日差しの中、少々長すぎだと思う黒髪を風になびかせながら彼女はそう言った。
 「なら、飛行機にでも乗れよ。金はかかるが、簡単に飛べるぞ?」
 こんな解答でも、俺的には必死に考えてひねり出した方なのだ。向こうがまじめに質問をしているのだから、俺だってまじめに答えたほうが無難だと思ったわけで……。
 「もぉ! 違うよ、そんな夢のない飛び方じゃ嫌なの!」
 少しだけ頬を膨らませて抗議する彼女。
 「冗談だよ。でも、なんでまた空を……?」
 「うん。私の背中に生えた綺麗な翼で、この大空をどこまでも飛んでみたい。おとぎ話みたいでカワイイと思わない? きっと気持ちいいと思うの。鳥さんみたいに……どこまでも高く、自由に、気高く…………」
 「カワイイとは思わないな。実に幻想的だが、現実味が感じられない分、感情移入もできない」
 彼女は再び頬を膨らませて、俺の顔を睨みつける。が、元々が童顔のためにそこまで怖くないし、逆に、それが可愛いと思ってしまう。
 ゆっくりと手を伸ばして、屋上のフェンス越しに見える永遠に続く青い空を眺めながら、彼女は掴めもしない雲をその手に掴もうとしていた。けれど、何故かわからないが、俺は「彼女なら雲を掴める」なんて考えていた。でも、現実で雲を掴むなんて不可能だ。そもそも物質ではなく、気体という元素なのだから。いや、気体は元素じゃないな。ま、どうでもいいことか。
 季節は八月。夏空にぴったりと似合う入道雲。時折、俺たちに影を落としながら飛ぶ鳶。木々が茂り、川のせせらぎが聞こえ、校庭には人っ子一人いない昼の校舎。虫取り網を片手に持ちながら、山へと駆けていく子供たち。日傘を差しながら談笑する主婦。手を団扇代わりにしながら、スーツを着て走るサラリーマン。誰もが皆、この季節を独特の方法で過ごそうとしている。そこに答えはなくて、答えが重なることはない。十人十色の色彩。一秒前に見えていた雲でさえ今はカタチを変えて流れていく。人・物だけではなくて、目に見えないような分子レベルまで昨日とは違う今日が待っている。
 そう……自分たちに何の関係もなく世界は廻っている。廻っているからこそ違う日常がやってくる。そんな……いつもの通りの夏休み。何も変わらず、誰とも触れあうことなく、ただ一人で、屋上のベンチに寝ころびながら、いつも通りで去年と同じような惰眠貪る予定だった。それはついこの間までの話。
 俺にとっては高校生活、二度目の夏。
 いつまでも真っ直ぐな瞳で、空を見続ける彼女。
 そして、彼女に出会って初めての夏が始まり、俺にとっては忘れることができない夏の始まりを告げる。
 名前も知らない。どこに住んでいるのかも、どんな性格なのかも。でも、たった一つだけ分かることは――。
 「翼なんて、生えてないだろ? それでどうやって飛ぶんだ?」
 「………………大丈夫だよ」
 「なにが?」
 「私には、翼があるもん」
 「……だから何を言って――」
 根拠のない返答。一応いっておくが、今の彼女の背中には羽なんて生えているわけない。服の中に隠してあるというのなら別の話だが、ワンピースを着ている彼女の背中はそのか弱そうな肌が見えているほどなので、俺の目がおかしくない限りはついてない。だが、彼女は続ける。
 「飛べるよ。ううん、飛ばなくちゃいけない。この空を、あの雲を突き抜けて、私は一つになるんだよ……」
 ――俺は……そんな彼女の背中に恋をした。
 翼なんてない、ただの一人の少女の背中に俺は恋をした。純粋で、可憐で、儚げな少女の容姿、声、仕草全てに恋をした。
 でも、きっと彼女は飛ぶ。
 この空の境界線を越えて。
 その背中には美しい翼を持って。
 どこよりも高く、誰よりも美しく、何よりも自由に……。
 始まりのオーヴァーチュアは鳴り響き、舞台の幕が上がり、音楽は輪廻となり世界を包む。それが、忌まわしき残酷なる運命と問うならば、抗ってみせよう、二人で。越えられない運命などなく、止まらない輪廻も存在しない。昨日と同じ今日が存在しない限り、今日と同じ明日もまた存在しない。二人で描く協奏曲はここから始まるのだから……――。






                        ……続く。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

雨―Call to Rain―

 雨―

 雨は嫌いだ。まるで、天が空を向くな、下だけを向いていろ。と伝えているような気がして、心が締め付けられるような圧迫感と、嫌な事を無理矢理思い出させるような天気だから。
 朝は驚くほど快晴だった空も、昼からの急激な変化で訪れた雨に打たれて、教室の窓から伝う雫は、私の奥底に深く、深く染みこんで全てを冷やしていく……。

 「おう、燕~。一緒にかえろー」
 右手を高々と掲げ、左右にブンブンと振り回しながら大股で教室に入ってくる霞を見ながら、私は深々と溜息を吐く。
 「かすみぃ、もうちょっとさ、なんていうのかな? 女子高生らしくお淑やかにできないわけ、あんたは?」
 「はん! 女子高生だからこそよ、花の女子高生と言われている年齢だからこそ暴れるのよ!」
 年齢でいうならば、なおさらお淑やかにしとくべきじゃないかと私は思うのだけどね……。
 放課後でクラスメイトの三分の一程度が教室から出て行ったとしても、ここは共学なのだから、男子の目も少しは気にしろっつーの。そりゃ、まあ、女子校であれば、三年になればなんの恥じらいもなくなってくると聞いたことはあるけれど、共学で生活している私たちにはそんな話は無縁だと思う。
 「家に傘を忘れて、そこまでテンションが高いのはかすみだけだよ、ホント……」
 「はーっはっはっはっ! 雨ぇ? そんなの関係ないねー、濡れて帰ればいいだけっしょ!」
 握り拳を片手に雄叫びをあげているかすみは一体今を何月だと思っているのだろうか? 暦の上ではすでに春だけれど、まだ三月初めであり、濡れて帰るということは風邪をひけと言ってるようなものなんだけど。
 「とりあえず、ゲーセン行こう」
 なにをもってゲームセンターに行かないといけないのか、甚だ疑問だけど、もしかしたら立ち寄っている途中で雨もあがるかもしれない、と即決。
 「うん、行こう」
 が、当たり前なことに人生、そううまくは行かないとすぐに実感することになる私であった……。

 「雷……?」
 ゲームセンターでかすみに放置プレイを喰らって三十分ほど、いい加減に景品ゲームに挑戦するのも飽きたため(かすみは格ゲーとかいうゲームで一時間ほどやってるけど)、そろそろ帰ろうかなと店の扉を開けた途端に、山の向こう側に一つの閃光を見てしまった。
 私の定義によれば、雷というのはたいてい大雨とセットである。山の向こう側ということは目算でおよそ四、五分で大雨になると予想。
 わかっているけど、家までの距離はそんなに優しくない。ここから自転車でも十分ほどかかる距離なため、どんぴしゃでずぶ濡れという訳。
 「………………」
 時間と共に厚くなっていく雨雲を見上げながら、私は心を冷やしていく。
 「帰ろう……」
 鞄を頭の上に掲げて、少しでも雨を凌げるようにして私は走り出す。
 逃げ出すように。

 「うぅ、やっぱりずぶ濡れじゃん……」
 商店街の軒先に避難して、鞄の中からハンドタオルを取りだして顔と髪の毛についた雫を軽く拭き取る。
 「ひどく、なってきた」
 独り言。
 近くに誰もいないし、誰にも聞かれたくない、ただの独り言。
 「なにやってんだ? こんな所でよ」
 聞き慣れたような声に私は顔をあげる。
 「大沢、君?」
 確か、同じクラスの大沢君だったような気がする。二年の後学期から一緒になった男の子。
 前学期と後学期で変わるうちの学校のシステムでは、名前を一々覚えるのが面倒だった私が唯一、色んな意味で覚えていた男子でもある。
 大沢彰。成績は私と同じ中の上、顔も性格もグループ内で話題にならないほど普通の存在だけど、運動神経がずば抜けて高く、入学当時から様々な部活からオファーが来るほどだった。その実力は計り知れず、一年、二年時共に体育祭では選抜リレー選手アンカーに選ばれ、一年の時なんかは、他の選手をごぼう抜きでクラスへ優勝をもたらせた人。
 だが、それ程の実力を持ちながら運動には興味がないらしく、部活にも入らず帰宅部一直線。ときどきゲームセンターの話題が出ているから、今日もゲームセンターに行ってきた帰りかもしれない。
 「えっと、確か白行さんだっけ? いつも柊さんと一緒にいるよね、よく見かけるし」
 「あ、うん」
 かすみとセットに扱われたことにちょっとだけカチンときたけれど、名前を覚えているだけ良しとしよう。
 「そういや柊さんと一緒じゃなかったの? さっきゲーセンで柊さんを見かけたんだけどさ、一緒じゃないのかなーとか思ったり」
 「私、そこまでああゆうところに行かないから、先に抜け出してきたの……雨も酷くなっちゃってるから、先に帰ろうかなぁって」
 「へー、そうなんだ……。あっ! あれだよ、あれ。柊さんって格ゲーうめぇのな! 俺がやってたらいきなり乱入されてさ、ボッコボコにされちゃったんだけど、ちょいと気になって対戦台を覗いたら柊さんが座ってるのよ、いやーマジびびった……あはは、女の子に負けるのはちょっと癪だったけど、あんだけコテンパンにされたらこれで良かったかもーって思えるね。コンボとか簡単に決めてくるのよ――」
 大沢君は私の知らない用語連発しながら、楽しそうに先ほどの対戦の様子を喋る。というか、こんなに喋る人だったんだ……。まぁ、同じクラスといっても半年でバラバラになる可能性が高いから、よっぽどの事がない限り話したりはしないけど、さ。
 「――そこで柊さんがさ――で、また俺も――ほんっとすげーな、柊さんって――――」
 なんだろう、この胸の冷め方は……何かに似てる。
 あぁ……雨と同じ、だ。
 まるで私の居場所を溶かしていくように、段々とその冷たい手を私へと伸ばしてくる。これ以上にないほど、心を冷やしていく感覚。……ようするに、嫉妬している訳だ。私は、かすみに……。
 大沢君とそこまで仲がいい訳じゃない、でも、私が目の前にいるのに出てくるのはかすみの話ばかり。なんか、私の居る意味がない……。
 熱心に語る大沢君の横顔を見て、そんなことを思った。でも、私は『嫌だ』と、思った。何故? どうして? なんか、癪だから? 違う、違うんだよ……。
 ――もう、冷たいところにいるの、嫌なんだ――
 「そういや、白行さ――」
 「よ、呼び捨てでいいよ!」
 一歩近づきたかったのかもしれない。ただ、同じ場所に止まっていたくなかったから、自分から動かないと駄目だと思った……。
 「あ、あぁ……じゃあ、びゃ、白行」
 「うん、なに?」
 「うつむいてるからさ……何か嫌なことでもあったのか?」
 嫌なこと、か。確かに、天気は雨で、気分は憂鬱で、私は何だかかすみに負けている気分で、朝からテンションもあがらない。久々に異性の男子と話したと思ったら、私には全然わからない感じで……。
 「嫌い、なの。雨の日って」
 「………………」
 「気分が晴れないっていうか、苦手なのかな? 昔を思い出すし、取り残されてる感じがするの」
 「昔って――」
 そこまで口走って、大沢君は喋るのを止めた。多分、私の過去を無理に聞きたくなかったんだと思う。
 「昔ね、雨の日に友達と遊んでいたときにケガ、させちゃったんだ……。廃墟の工事現場で色んな場所がぬかるんでいて、何度も危ないって親に注意されていたのに遊びに行ったの」
 興味本位。子供ながらの探求心、というやつかもしれない。雨の日だったらいつもと違う風景が見られるかも、なんて。
 それが間違いだった。
 私が見たものは、土砂が崩れて大きな穴に落ちていく友人と、ただ呆然と立ちすくんでいた自分の姿。本当に客観的で、まるで第三者の目で自分を見ているようだった……。
 「その友達って……」
 「大丈夫だよ。落ちた穴はそこまで深くはなかったし、足から落ちたから軽く捻挫する程度で済んだの」
 必死に助けを呼ぶ友人の姿、その場所から動こうともしない自分。

 ――ダレカ、ワタシノナマエヲヨンデヨ……――

 友人から自分の姿はきっと見えてない、自分から友人の姿が見えていないのだから。

 ――タスケテ、ヨ。ナンデ、ワタシハココニイルノ?――

 友人の落ちた穴は壁が雨でどろどろになり、まるで中にいる友人を埋めてしまうのかとも思えたほど、急速に崩れていく。

 ――アァ、ワタシハコノママシヌノカナ――

 それでも、自分は動かなかった。動けなかった。

 ――ナンデ?――

 だって…………。
 私が望んだ雨の日に出会ったのは、無力な自分。雨は絶望を呼ぶものだと、小さいながら思いこんでしまったから、私は雨になんの出会いも求めない。

 ――この日、この瞬間がなければ、私はいつまでも雨が嫌いだったかもしれない。

 心の奥底に冷たい冷たい雫が落ちる。
 「あー、なんて言ったらいいかわかんねーけどさ」
 大沢君は頭をかきながら、私へと言葉を投げかける。
 「それはさ、白行が逃げてるんじゃないの?」
 「……逃げ、てる?」
 それは意外だった。
 「単純に出会いを求めてないんだよ。そりゃあな、新しい出会いを求めるために出かけた雨の日に嫌な思い出があってさ、臆病になっちまうのはわかるような気もするよ。けどよ、それで『雨の日全部』を否定しなくてもいいんじゃないのか? こんなこと俺がいうのも変だけど、過去と向き合うからこそ、未来にも向き合えるんじゃないのか? なんかさ、俺的には白行が過去と一緒に未来を否定してるような気がするんだ……それって悲しいじゃん、過去に辛いことがあったのは確かにキツイ、でも、未来を否定しちまったら良いところなんて見えてくるはず、ないよ……」
 私が未来を否定してる……? 過去には縛られてるかもしれないけど、否定なんかしてないよ。
 「今の白行は無力なのか? 過去にそんなことがあって、今も誰も助けられないのか?」
 「……っ!」
 そんなこと、ない! 私は、あの頃とは違うんだから!
 「でもっ! 大沢君には関係ないじゃん! だったら、大沢君には助けられたの? 私と同じ状況になって、本当に友達を助けられる自信はあるの?」
 その言葉が口から飛び出す前に、なんとか私は自分を押しとどめた。
 ……関係、ないよ。大沢君は全然関係ない。なのに、なんでこの人は私の心へと踏み込んでくるのだろうか。
 「自分で、自分を否定してたのかな?」
 「出会いはあるわけない、ってな。違うんだろ? 今の自分は過去とはよ。成長した、強くなった、だったらもう一つ大きくなろうぜ」
 「え?」
 「過去を払拭して、新しい出会いを求めて、好きになろうぜ、雨もよ」
 そういってニカッと笑った大沢君はとても格好良く見えた……。
 「俺は……好きだぜ、雨の日も」

 ――心の奥底に落ちた、冷たいはずの雫が……。

 「だってさ、雨の日じゃなかったら、白行と出会えてなかったんだからよ」
 「えっ……?」
 
 ――何にも代えられない暖かい雫となって、私の心に染みこんでいく気がした。

 そして、私ははっきりと、誰にも聞こえない、私だけにしか聞こえない音で……。

 ――恋に落ちた音がする。

 「そう、だね……」
 「それに、雨はすげーんだぜ? 雪にも変わるし、雨が上がったら虹にもなる。本当に、架け橋みたいじゃん?」
 傘を差しながら、大沢君は空を見上げる。私も彼につられて空を見上げる。
 「雨が降らないと、街に虹は架からない。虹が架かっても、空を見上げていないと虹は見られない。なら、見上げていればいい……この雨が上がれば、虹が見れるんだからな」
 雲の隙間から薄日が差し込み、遠くの山に虹を架ける。
 「俺は助けられたか?」
 「ん? なにを?」
 「穴に落ちちまった白行を、よ」
 あ~、凄い、この人は凄いよ。本当に私の心を読めてるみたい……。




 季節はもうすぐ春へと変わる。
 私にとって、初めての恋の季節へと変わっていく。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

鎮魂歌

――ひとつの滴が頬に落ちる。
 どうやら外は雨みたいだ――




 この季節はこれだから困る。じめじめしているうえに、雨漏りまでする。
 それも仕方のないこと。月2万という格安のアパートで、これ以上にどこの経費を削ればいいのか想像もつかない簡素さ。
 でも、そんな雰囲気が気に入って私はここに住むことに決めた。
 無論、お風呂もなければガスもなく、電気もない。裸電球が天井からぶら下がっているけれど、電気が通っていないので、役目を果たす日は当分こない。
 共同トイレに4畳半の小さな部屋。
 足を伸ばすスペースもなく、必要最低限……といっても、テーブルとガスコンロだけで。
 いや、最近はガスコンロさえ使ってはいない状況。というより、使っている時間がないし、ガス缶の中身も一ヶ月以上前に切れていたはず。買おうかな? と思っていた矢先に、仕事が舞い込んできて、いつも通りだらだらと時間がなくなり結局は買わない。
 そんな、何かに縛られたような生活で、同じような景色をくるくると廻る。
 まるで螺旋階段のように……決められた場所を、決められた景色を、決められた時間を、私は生きている。

 今の仕事を始めて、もうすぐ一年が経とうとしている。
 始めた当初は楽しかった。仕事をしている。という感じだったし、充実感もあった。部屋は……いや、こればかりはせめてもしょうがないけれど……。きちんと生活ができていたし、付き合っていた彼氏もいて「そろそろ結婚しようか」なんて、言ってくれると思っていた。
 ところが、現実はどうだろう? 彼は私のどこに愛想が尽きたのか、いきなり別れ話を持ち出してきたのだ。
 なぜだろう? 身だしなみはそれなりにキチンとしているつもりだし、化粧は……化粧品がないから素顔に近い状態だけど、そっちの方が可愛いと彼は言っていた。髪の毛の色かな? でも、これでも日本人の標準である自慢の黒髪ではあるのだけど、さ。もしかして、臭い? いやいや、こんな生活をしていても毎日銭湯に通ってはいる。風呂がないから通うしかないため、お金が日々飛んでいくのが難点だけど、それなりに満足はしている。ん~、あと考えられるのは私服かなぁ。これでも正装のつもりなんだけど……。
 パンパンとズボンについた埃を軽く払って、私は立ち上がる。
 あっ……穴、開いてる…………。これが、いけないのか。でも、ジャージって通気性もいいし、何より動きやすいし、この小豆色も結構気に入ってるんだけどなぁ。

 「お前、そんなに服のセンスがないのか?」

 本気でショックだった……。
 「ジャージにセンスとか関係あるのか!!」とツッコミたくなるほど、ショックだった。しかし、案外当時も冷静だったのかもしれない。言い訳もとくにせず、これからどうすればいいか話し合えたぐらいだから。
 先に警告しておくけど、私がジャージ姿になったから嫌われてしまったわけじゃないことを言っておこう。それは……まぁ、その、大人になれない子どもの事情というやつで、色々あってしまうわけなのよ、これが。




 それから、紆余曲折あって彼氏とは別れた。
 この狭いアパートにまた独り取り残される。
 でも、不思議と孤独はない。




 ――限りなく理想に近い現実だった。
 おとぎ話のような、現実――




 電話が鳴る。
 着メロを同じに設定しているので、おそらく上司から。つまり仕事が入ってきたというわけね。
 私は仕事着に着替えるために、服を脱いで壁にかける。着る服はもちろん仕事用ジャージ。闇に身を隠すにはうってつけの漆黒の黒。仕事用と私服用と分けているのは都合というものもあるし、いざというときに処分困ることがないのも理由の一つ。
 再び携帯に目を落とし、上司からの本日の依頼と、内容、場所が事細かに書かれたメールを読む。
 タンスの引き出しをあけて、仕事道具をとりだして玄関に向かう。

 ――ガチャリ

 ドアを開けて、壁にもたれかかっている私の初めての人へ声をかける。返事はなく、ただ、光を失った瞳が私を美しく捉える。
 『グレゴリオ聖歌』と呼ばれる詩を紡ぎながら、私はゆっくりを玄関のドアを閉じる。投げキッスでもしてあげたいけれど、惚気て仕事に遅れてしまったらお金が貰えない。ここは諦めることにしよう……。
 あぁ、私に優しさと厳しさを教えてくれた人。感謝してもしきれないほどの極みで、私の初めてに付き合ってくれた人で、私に全てを教えてくれた人で、仕事の喜びを教えてくれた人で、脆さと儚さを併せ持った人……。
 今の君は、とても美しいよ。
 でも、もう、遊べないのが残念だなぁ。
 じゃあ、いってくるよ。




 ――雨はただ繰り返す。
 天と地を行ったり来たり、まるで螺旋階段のように。
 豪雨は音を消し
 証拠を消す
 命という炎でさえ、かき消すものだ――






















 まぁ、半年前まではきちんと首から下もあったんだけどね。

| | コメント (0) | トラックバック (1)